意識の主体の個別性は何によるか意識の主体(器)について意識の主体の個別性は何によるか 追記; 私は、自分が自分であるのはなぜか・何によるか、ということも追求してきたのですが、 「意識の主体(器)」の個別性は大きな謎のままです。 Aさんの意識、Bさんの意識、Cさんの意識・・・といった一人一人異なる意識はなんの違いで生まれるのか、という問題です。 考えられることは、 意識の主体の何らかの周波数・波動性の(わずかな)違い、 意識の主体を構成する素子の何らかの(わずかな)違い、 意識の主体の質量の(わずかな)違い、 などですが、 ここでは、対称性というか平等性が破れています。 そこに対称性・平等性がない、ということも不思議です。 それもまた永い時間をかけて完全に平等になっていくとしても、その在り方はいったいどうなっているのか、これからの研究課題です。 ここで、「意識の器」を想定・仮定する根拠をかんたんに挙げてみましょう。 1)意識というものは、一体性・全体性を形づくっている。 2)リベットの実験を矛盾なく説明するためには、それが必要である。 3)心・意識は物質そのものでないことは自明である。 4)「物質から心・意識は生じるはずがない」という命題も説得力がある。 5)意識は脳の一部に対応していることは、さまざまな観察・考察から明らかである。 6)夢をみていて、意識しながらみている夢というものがある。 7)身体の器官などのもつ機能、それらは図示すれば理解できるが、 意識・心だけはそうでない。 8)世界中の言語に、霊魂、霊、魂、などという単語がある。 そのほか 意識の器として考えられるのは、脳の一部、脳の全体、そのほかいまだ知られてないエネルギー的存在、いわゆる霊魂と呼ばれているもの、などが挙げられるわけです。 後者のふたつは同じ存在、といっていいでしょう。 質の科学では、それらのどれであっても、転生がありそうであるということの証明らしいのを成していますし、質時間回帰則(科学的カルマ)が存在することの証明みたいなのを行っています。 さて、 意識について考える時に重要なことのひとつは、 「意識」、と、「意識内容」、を混同しないことです。 人は、「意識内容」を自分である、とみなすことが多いのです。 自分というのは、「意識内容」ではなくて、「意識」、なのです。 ここは少しむずかしいかもしれませんが大切なポイントです。 コンピューターでたとえると、自分というのは、表示装置(画面)というか、表示装置の働き、なのです。 コンピューター本体の演算装置(計算装置)や記憶装置などではなくて、 ジャンル別一覧
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